―時の魔法―



壊れちゃったら・・・。口に出しては言えないけれど、それが怖い。

かといって今さら後には戻れない。何よりもこうなることを願っていたのは私。

私以外、誰も寝ることのなかった私の部屋のセミダブルベッド。

隣に寝る彼が、腕枕で私を引き寄せる。

「真澄(ますみ)・・・」

名前を呼ばれて答えようとしたら、口をふさがれた。

ゆっくり優しい愛撫のようなキスに、思わず声が漏れる。

「あっ・・・」

声の漏れた口の隙間から、彼が舌を差し入れて来た。

喉の奥深く、絡みつくように。かすかな声さえも出すことが出来ない。

体で反応する私に、彼の息づかいが乱れる。

「真澄・・・真澄・・・」

何度も名前を呼ばれ、繰り返されるディープキス。

・・・ここまでは同じ。キスまでの関係で付き合い始めて1年。

「1年間もよく待たせてくれたよな・・・」

息を整えた彼が、少し意地悪な顔で私に言った。

待たせたわけでももったいぶらせたわけでもないのに、戸惑いの表情を浮かべる私に彼の顔
が綻んだ。

「可愛いな、真澄は」

彼が私を見つめる。私の顔を見つめながら手は乳房に掛かる。

片方ずつ大きな手のひらで、包み込むように乳房を撫でる。

・・・体が熱くふわりと浮き上がりそうな、これが快感?

彼が片腕で上体を支えながら、私の上に覆いかぶさる。真上に彼の顔。

ああ・・・ほんとうに十五年も経ったのかしら。

真正面で見る彼の顔はもうすっかり大人なのに、十五年前の知り合った頃の顔がだぶって見
えた。

彼の背中に両手を回し、私もそっと呼んでみる。いつものように。

「・・・篠田(しのだ)君」

・・・篠田君?急に止まった彼の手。

すーっと体から熱が冷める。

どうしたの?と訊けば、催促に聞こえるかしら。

窺がうような私に彼から答えてくれた。

「・・・いつまでも篠田君はやめてくれないか?いくら昔同級生だったからって」

半年くらい前にも一度、同じようなことを言われたことがあったけれど。

なんとなくうやむやになっ
て、それからは何にも言わなくなったのでいいのかと思っていた。

「でも・・・ずっと篠田君だし、今さら他の呼び方なんて・・・」

「ふ〜ん・・・じゃあ俺もお前のこと真澄って呼ぶのは辞めて、上原君って呼ぼうかな・・・」

彼の軽い口調が冗談だとわかってはいるけど、私は笑えなかった。

彼が知っているから、なお許せなかった。

嫌味のように涙がポロポロこぼれた。

あわてた彼が「ごめん、ごめん」と私を抱きしめて、「真澄は最高の女だ」とか「愛してる」とか「お前は俺の全てだ」とか。

普段は口が裂けても言わ
ないような言葉の羅列を、惜しげもなく私に語り聴かせる。


「透(とおる)って言ってくれよ・・・」

私の乳房に顔を埋めながら独り言のように彼が呟いた。

だけど私は聞こえない振りをして、彼の動きに身を任せる。

再び上昇する体温の熱を感じながら。









「透!おはよーっ!」

「透!帰ろうぜ」

「透!ノート見せろ!」

透は中学時代の彼の呼び名。

高校や大学は知らないけれど、中学時代友達同士の間では透
と名前で呼ばれていた。

私は中学一年生の時に親の仕事の都合で引っ越して来て、慣れない土地で学校も知らない子
ばかり。

もともと内気でおとなしかった私はすっかり萎縮してしまって、いつまでたっても馴染めなかっ
た。

いつもひとりぼっち。

グループを組む時でも、先生の口添えで入れてもらっていた。

それでもひとりぼっちは慣れていたし・・・放っておいてくれたら良かったのに。


「上原、パン買って来い」

「上原、掃除当番代わって」

「上原、先に理科室行って準備しとけよ」

断ればいじめられる?言うことを聞けばそれで済む?

黙って言うことを聞く私に、エスカレートするクラスメートの言葉。

胃がキリキリと痛んで、勉強も手につかなくなりそうになった時 、

「いい加減にしろよ」

「・・・透」

バツの悪そうな顔で、彼らは篠田君を見た。

「お前らもだけど・・・」

篠田君がギッと彼らを睨んだかと思うと、ずいっとかき分けるようにして私の前に来た。

「上原もだ。嫌なら言えよ、黙ってることないじゃん」

そう言った篠田君の眼は怒っていた。

私はやっぱり何も言えなかった。黙って俯くだけだった。

「黙っているのが一番ずるいんだぞ」

ずるいと言われた篠田君の言葉に、思わず私は顔を上げて彼を見た。

「だって・・・断ったら・・・いじめら・・れ・・る・・」

そこまでしか言葉がつなげなかった。

あとは嗚咽だけがついて出た。


「ちょっと調子に乗る奴らばっかだけど、俺の友達はいじめたりしねぇよ。
クラスメートじゃん、
信用しろよ。なぁ?」

篠田君が彼らに投げかけた「なぁ?」のひと言で、私はその先一切いじめられることはなかっ
た。


それから暫くして、私は篠田君と一緒に帰るようになった。

気がつくと彼は退屈な顔もせず、いつも私の傍にいた。

中学時代の三年間、それは変わることはなかった。



高校も篠田君と同じ学校に通ったけれど、私は三ヶ月で退学した。

退学を決めた日、私はその理由を告白した。

彼は私の告白にただ何も言わず黙っているだけだった。


「黙っているのが一番ずるいんじゃなかったの」

微笑みながらありがとうと言って、私は篠田君の前から姿を消した。


―篠田君、僕は女性になりたい。心と同様に体も女性になりたい。この男の体が苦痛なんだ。
それなのに日ごと体は成長して、ますます男になっていく。僕は君に抱かれたいと思う。
思えば
思うほどこの体が苦痛でたまらない。・・・僕は女性になる―










それから幾年もの時が過ぎ―

僕が私になって、体も女性になった。

高校を退学して家を飛び出し夜の世界で働いて、あのおとなしかった子は誰?なんて思うくら
いに私は強くなった。

指名料の売り上げも常にトップを維持し、稼いだお金は全て自分につぎ込んだ。

自分の体と自分自身に。

誰よりも美しく、誰よりも良い物を身につけ、誰よりも教養高く。


十六歳で飛び出した家に、二十六歳で戻った。

親を納得させるには充分の私の容姿、資産、信念。

二十七歳で再び彼に出会ったのは運命・・・。

いいえ、私の願いが通じたから。

全てを話してまた私達は昔のように付き合いはじめた。

もちろん今度は友達としてではなく、恋人として。







彼の動きが大きくなって、私は急に体が緊張した。

「いやっ・・・篠田君・・・やめて!」

思わず叫んだ私に、冷静な彼の声が返って来た。

「どうした?何も怖いことはないよ」

「だめなの・・・だって私のは本物じゃないんだもの!」

壊れてしまうんじゃないかと、それが怖かった。少しずつ形成していった私の女性が。

パニックになった私はヒステリックに喚いた。


「作りものだもの!嘘なんだもの!こんなの形だけだもの!」


彼を退けようとする私の腕を彼の片方の手が抑え付け、もう片方の手が下半身へと滑る。


「真澄」

不意に呼ばれて気が緩んだ。

その刹那、声があえいだ。

「感じた?」

彼がクスッと耳元で囁いた。

あえぎ声を必死に押し殺そうとする私に、さらに彼は続けた。

「本物以外なにがあるんだい。これだけ敏感なのに」

言葉にならない声が出る。次々と私の体の内から湧き上がる快感。

彼がぐっと私の両肩を掴んだ。

「力を抜いて・・・」

私の唇に軽いキスをしたかと思うと、一気に舌を入れてきた。

彼の舌が私の舌に絡むたびビクン、ビクンと私の体が反る。

何度かの繰り返しの後、いきなり
突き抜けるような痛みが下半身を襲った。


時は魔法のよう。

私を女性に変えてくれたことも、愛しい人に抱かれたいと焦がれ続けた思い
も、叶えてくれた。


「真澄、ずっと好きだった。でも俺は男には興味ないから、抱きたいなんて思わなかった。
抱く
対象はあくまで女だ。ただお前とは一緒にいればそれで良かった」

「篠田君・・・」

「良かったはずなのに・・・。お前が女の体になっていた時は驚いたけど、不思議なほど違和感
なんてなかった。
正直嬉しかった。綺麗で華奢で・・・最高だ」



私達はひとつになった。

初めて出会ってから十五年。

「結婚しても俺のことを篠田君って呼ぶのかい?」

私の髪を指先で梳(す)くように撫でながら彼が言った。

涙が幾筋も頬を伝い、その言葉だけで私は充分。

私はあなたの子供が産めないからと首を振った。

「子供のいない夫婦だってたくさんいるじゃないか。俺たちはそれが最初からわかっているだけ
のことだ」

「でも・・・」

「それともお前は俺に抱かれたかっただけか?」

優しい彼の物言いがよけい私を躊躇させる。

「そんなことないってわかっているくせに・・・もういいの」

話を打ち切るように私は彼の胸に顔を伏せた。



「俺は良くない」

「・・・篠田君?あっ・・・」

急に体を起こした彼が、私を抱き上げて姿見(すがたみ)
の前に立った。

全裸のままの私たちが映っている。

「恥ずかしいわ。・・・降ろして」

「何が恥ずかしい?」

「恥ずかしいじゃないの。・・・こんな・・・裸で・・・」

彼は私を降ろしただけで、離してはくれなかった。

立ち姿の全身が映った。


「綺麗だよ。・・・この身体を待っていたのは俺の方かも知れない」


ああ彼の言葉が、家を出ていた十年間を思い起こさせる。

私の十年は、誰のための十年だったのだろう。


「透・・・」

名を呼ぶと、彼は嬉しそうな顔で呟きながら私を抱きしめた。


「時は魔法のようだ・・・。真澄、もう一生離さない」







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